1969年4月18日。 ファインマン誕生の日

ガネーシャ ファインマン記

1969年4月18日、ファインマンが生まれる。1500gの未熟児。生まれてから、何度も病院に入ったり、出たりしたらしい。3人兄弟の次男として生まれる。

ファインマン誕生の日

1969年4月18日は、紀宮さま(元清子内親王:さやこないしんのう)と同じ日に生まれたことになる。日本の元皇族の黒田清子さんと同じ日に生まれたというだけだが、私にとっては、一つの自慢です。

生まれてからは、超未熟児だったため、入退院を繰り返して大変だったみたいです。兄と妹の三人兄弟です。私が小学生の低学年の時、父の暴力で離婚。母が母子家庭として育ててくれました。この頃には元気で小学校4年生から始めた野球に打ち込んでいました。

中学では、野球ではなく、卓球をします。グランドの隅の卓球場が良く見えたのかもしれません。海の近くで防風林に面した中学で、20年前に流行った「ウォーターボーイズ」(シンクロナイズドスイミングに挑戦する男子高校生の映画)のロケ地のプールがある学校。中学3年間は半分卓球、半分防風林で遊んでいました。

高校は地元の駅から2つ離れた工業高校へ行くことになります。兄は別の夜学がある工業高校に働きながら通っていました。妹は会社がお金を出してくれる商業高校へ行きました。高校では電気を学びながら陸上競技部で長距離をしていました。男子校で女子にモテることもなく、ひたすら走っていましたが、いつも、補欠。マッサージや雑用も含め精一杯頑張れたと思います。

工業高校ということもあり、就職には困りませんでしたが、専門学校に進学をします。工学部はバイトが大変ということで、大学は諦めました。新聞奨学生として、新聞配達をしながらコンピュータの勉強をするため、東京へ行くことを決めます。家族にも、決めてからの報告でした。家を出たかったからだと思います。高校生の時には、母も別の人と付き合っていました。昼間の仕事のほかに、夜も駅の近くの食堂で働いていましたが、そこで知り合ったみたいです。

東京へ行く新幹線の見送りに来てくれた母をまだ覚えています。

今では、バイクでしょうが、当時は自転車での配達です。前かごに前が見えないほど新聞を積んで、ふらふらしていたのを懐かしく思います。配達と集金、チラシの準備等で勉強も思った以上にできませんでした。この頃から厚生年金や税金を払っていました。それでも、給料が出て、生活に困ることはなく、当分は母を困らせることもなくなりました。

就職は保険会社の子会社に入りました。保険会社の給料体系が崩れるという理由で、専門学校卒を子会社で受け入れるという形でした。職場は保険会社で親会社へ出向というものでした。週休二日制で給料も良く、福利厚生もよく、職場は都庁裏。昼食には中央公園でお弁当もできました。月に一度は子会社に顔を見せに行き、自由行動もできました。初年度冬のボーナスは手取りで50万にもなりました。

でも、やめることになります。人間関係に嫌気がさすという事でもありませんでした。その時には、フレックスタイム制にもなっていましたし、福利厚生はこんな会社もあるんだというほどに良かったと思います。職場と富士通の研究所で大型コンピュータを使って、バリバリ仕事をしていました。子会社だからということも関係はありませんでした。

上司を見て、ずっと、社会人なのかなぁと思っただけなのかもしれません。それは、給料も良く、上司と行くフカフカの絨毯がひかれた飲み屋も、生活には何も困っていませんよ的な雰囲気も居心地が悪くありませんでした。定年までこれなのかと若造が思ったのかもしれません。

その後、青年海外協力隊に落ちます。自分ならできると自信もあったのですが、力不足だったのかもしれません。海外に興味があっただけなのかもしれません。応援して送り出してくれたのに、会社を辞め、地元に戻ることに葛藤も凄くありました。それでも拠点を地元に移すことになる。地元でもソフトウェアのエンジニアとして仕事をする。良い仲間もできたし、仕事も嫌いじゃない。でも、ずっとくすぶっていて、実行してこなかったことをする。

今度は、名古屋で英語の専門学校へ入学する。もともと、工業高校で英語の勉強はお遊び程度だったので、初めて、しっかりと勉強することになる。同時に短大の通信教育もすることにする。また、お金が足らないので新聞奨学生に戻る。勉強量が減るのはしょうがないとあきらめる。周りは高校を卒業したばかりで英語が好きな子ばかりに囲まれて、ほとんどゼロからのスタートでした。一人浮いていました。形だけ、卒業時には英検準2級になりました。それが精一杯。目標意識がなさ過ぎました。

周りからの言葉に逆らえず、就職。メーカーで営業をすることになります。朝は6時には出社です。ノルマもありますが、上司が6時には出社していましたので何も言えません。飲みに行くと毎回お説教でした。ほとんどがサービス残業です。それでも、頑張ってきましたが、30歳を前に折れました。

ワーキングホリデー制度取得期限の30歳を前に会社を辞めます。場所は、ニュージーランド。海外への夢を結局捨てきれなかったのだと思います。青年海外協力隊もこの延長だったのだと思います。憧れしかないのを、見抜かれて落とされたのかもしれません。本当は、心のどこかでその当時海外で大きな事件があり派遣中止が多くあったのが原因だと思っています。

今回はここまで。

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